とんでもない失敗の話
こんにちは。エスシです。
東京あたり週末はまた雪だそうで……個人的な用事があるのでちょっと心配です。
先日、以前仕事で訪れたことのある施設がTVに映っていました。
やっぱりちょっと動悸がしました。
そう、私が過去に色々と"やらかした"場所だったんです。
その日の私は朝から落ち込んでいました。
しっかり準備はしたはずなのにどうしても不安で、仕事現場に行くのが憂鬱で。
関係者に挨拶をしても軽くあしらわれているような気がしました。
重宝されるような人材でもなかったから仕方ないのですが、「お前なんていてもいなくても同じだ」と言われているようで、居場所がなくて辛かったです。
大本のクライアントの方は唯一、笑顔で「今日はよろしくお願いします」と迎えてくれました。
本当はそれで充分だったんですよね。その笑顔を支えに、その人達のために頑張ればよかった。
でもその時の私は、目先のことにとらわれて、自分の気持ちにとらわれすぎて、そんな風に開き直ることも出来ませんでした。
仕事本番、緊張から案の定ミスを連発。
何も判断が出来なくて、というか、判断基準を持っていなかった私には、ミスをリカバリする能力がなかったんです。
仕事終了後、例のクライアントは私のミスにも笑って「楽しかったから気にしないで」と仰ってくれましたが、他の関係者は明らかに怒っていました。
当然です、私は所詮その箱を借りて仕事しているだけ、私のミスの責任を追うのはその箱の責任者と私にGOサインを出した担当者なんですから。
せめて迷惑を掛けたことを一言でも謝りたいと声を掛けようとしましたが、こわばった顔でただ一言「今日はありがとうございました」とだけ言われ、綺麗に無視されました。
……あらためて思い出しても、我ながら最低の仕事ぶりです。
きっと、その日に限らずそれまでにも他にも至らない点がたくさんあったと思います。そんなこれまで許容してもらっていた分も、関係者には落胆させてしまったんだと自覚しています。
その日、私はその仕事から離れることを本当に決心しました。
向いている・向いていない、そんな言葉で努力を放棄することは悪だと思っていました。
向いていないと感じても、まずは努力するべき、そうしたらいつか光が見えると思っていました。
だけど、努力しても叶わない、それ以前に努力しようと思っても出来ない、それが「向いていない」ということなんじゃないか、今はそう思います。
今でも私は、「便利な言葉を使って努力を放棄した弱い自分」を抱えて生きています。
これからどうやって生きていこうか、また同じ失敗を繰り返すんじゃないか、そう思うととても怖いです。
今日は、自分の決定的な失敗のことを書きました。
いつかは古傷として乗り越えられるのか、ずっと生々しい傷として抱えていくのか、今はまだわかりません。
ですが、ここに記すことで少しでも整理したい、同じ経験をした誰かの目に留まるかもしれない、そんな思いが心にあります。
ちなみに今は、短期の仕事をしながらなんとかやっています。
自分への失望感と他人と関わることへの恐怖が消えなくて、継続してひとつの仕事を続けられないのが悩みです。
これまで仕事の性質上、自分のキャパを超えて多くの人と関わらざるを得なかったので、極力人と関わらない仕事を探しています。
そんな仕事が本当にあるのか、疑問です。